大好きなおじさん・おばさんご夫婦に初めて一人で会いに伺った。


お二人宅へはお正月に家族で伺うのが恒例で、
歩いて10分ほどの場所なのに、それ以外の機会に訪ねたことは
本当に一度もなかった。


「好き」の気持ちはいつも少し恥ずかしくて、
その切なる気持ちを確かたらしめるロジックや、
正確に伝えてくれる表現をさぐるうちに
いつの間にか、がんじがらめになって、途方に暮れてしまうのが常だから。


ともかく。
今回は「おじさんとおばさんにお会いしたいから」
と電話でお伝えし、くず餅をお土産に伺った。


ご自宅はごく一般的な日本家屋。
ただ緑が美しく、窓に曇りはなく、柱には私たちの成長の印。
無駄なものが何もないのは、紛らわさなければならないものは何もなく、
お二人が十分に充ちてらっしゃるからなのだと思う。


おばさんは80を過ぎていて、おじさんにいたっては今年で90に。
なのにいつまで経っても若々しくて
私の携帯電話をみて「携帯は若いひとにとってファッションですからねぇ」なんて。
おばさんは私にメールも下さる。
だけど、文章はメールに似つかわしくない、うつくしい日本語。
お二人が新しいものを恐れずにいられるのは、
本質を見抜かれるからなのだと思う。


お二人の何がそんなに好きかって、
毎度、毎度、けちょんけちょんに誉めて下さるから。
私を、母を、父を、弟を、誉めて下さるから。
善なる部分を見出して、暗がりの部分を優しくさすって、
誰よりも、私たちの未来を信じて下さる。


誉めるのは私たちだけでなく、
お互いのことだってちゃんと。


お二人の「誉める」はわざとらしさが少しもない。
その理由が今回やっとわかった。


お二人は相手の事を「ほんとうに」尊敬して応対なさってるのだ。
未熟な私に対してすら尊敬に値する箇所を見出してくださる。


新しい年がはじまることが恐怖でさえあった時代においても
私がなんとか乗り越えられたのは
お二人が与えてくださる「光」があったから、
というのは決して大げさではない。


「和敬清寂」
それがここにはある。


おばさんから譲り受けた茶道具たちが、
少しずつ、息をふき返し始めた。