現代思想のパフォーマンス
「いま」は一つの通過点に過ぎない。
ここまでどう変化してきたのか、
そしてどこへ繋がろうとするのか、
そのことに価値がある。


愛とコトバとお金が循環しない時、
それは死んでいることに等しい。
「シニタイ」しか言えなかったあの日々、
私は既に「死んでいた」のだ。
それらが循環する世界、「物語」の中だけで
私は生きていた。


「現実」だって作られたものなのだから
ひとつの「物語」である。
現実の中でそれらが循環しないと嘆かなくても
私たちは現実の中ですら物語を作成することができるのだから
生きることができる物語を作成しながら前に進めばいいだけのこと。


現代という構造の中で、生きる決意を、私はした。
そのためにはいくつかの事を変更する必要もあった。
今では、それは決して悪いことではないと思っている。
カオスの中でも、
私しか属さない世界の中でも、
私だけが属さない世界の中でも、
私は長くは生きられないから。
構造は必要だ。


現実が作られたものであり
私の存在がテクストの一部であるということを自覚することは
必要なことだと思う。
目の前に広がる現実が絶対であるとしたら
一つの現実の中で生きられないとなった時
残された選択肢は死しかないから。


世界の構造を考える作業は
自らの構造を考える事と度々、もしくはいつも、
リンクするから面白い。


古代の人々とも現在進行形の世界構造とも
私はしっかりと繋がっていることを自覚せざるを得ない。


オリエンタリズムを掲げることで
西欧中心主義を形成した人々は
そのことでアイデンティティを形成すると同時に
ひどく辛かったと思う。
あるべき姿とそうではない私を皆が抱え
その事に畏れ、それを隠し、訳のわからない形でそれが表面化して
混沌とさせたことだろう。


この作られた世界の中で生きることを
私は再び決意する。
私はテクストの一部でしかないが
次の編目を作る一部でもある。


「正しい」なんてないから
考えながら、見渡しながら、
すすんでみるしかない。


モノに概念を与えてやる作業は
恐ろしいことだけど
行わないわけにはいかない。
それが恐ろしいことであり、
変容可能であることを自覚しながら行うしかない。
私たちが罪を犯さずに前に進む方法なんて
一つもないから。