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『同席の男たちが、政治のことでがやがや議論をしているなかで、
ツィア・テレーサが、ふと私の方を向いて、そっといった。
ねえ、アイスクリームってどうしてこんなにおいしいのかしら。
私はアイスクリームさえあれば、なにもいらないと思うくらいよ。
・・・
彼女の目は笑っていたけれど、声はかなり本気だった。
・・・
革新運動が、書店にも津波のように押し寄せて、
あっというまにすべてを呑みこんだ。
既成価値のひとつひとつが、むざんに叩きつぶされ、政治が友情に先行する、
悪夢の日々が始まった。書店が交流の場より闘争の場となることをえらび、
思想より行動を、妥協より厳正をえらんで
・・・
マルクーゼやチェ・ゲバラの理論がうずまくなかで、だれがツィア・テレーサの
しずかで控え目な勇気を憶えていただろう。』
彼女が過ごした書店を、都市を、時代を、
そして彼女の仲間たち(それは彼女と「袖触れ合う」程度の人々でさえ)を
彼女がこんなにも丁寧に美しく言葉に置き換えることが出来たのは、
それほどまでに愛したからだと思う。
彼女はどんな人の弱さにも(人は「みんな」弱さをもっている、と思う)
そっと寄り添い愛することが出来た人なのだと思う。
こんなにまでも自らを取り巻くすべてを愛することができたなら、
どんなに、どんなに心づらく、せつなく、そして幸せだろうか。
『それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、
若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。
その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と
隣り合わせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、
人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、
私達は少しずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような
荒野でないことを知ったように思う。』
私はいつまでこの本を大切だと言えるだろうか。
私はいつになれば「須賀敦子」になれるだろうか。